原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か
Ⅰ.そこで行われることでその中身がつくられていく建築
原っぱと遊園地
本書で「原っぱ」と表現される廃校や空き地は、つくられた空間がその意味を失った状態であり、機能主義的な構成も相まって、その用途には多くの解釈が可能となる。
一方、「遊園地」は用途が規定された空間であるが、これを一概に悪いというわけではない(オペラ劇場や自動車の運転席など)。
しかし、住宅のような空間が「遊園地」となると、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束してしまうことになる。
設計者の心理的要因の介入しないアルゴリズムによる設計手法は、建築を「原っぱ」に近づけるためのよい手法である。(ルイヴィトン表参道は、「直方体のトランクを積み上げる」というアルゴリズムによって作られている。)
映像性について
コーリン・ロウの「透明性ー虚と実」では、リテラルとフェノナメルの2種類の透明性が述べられている。外観のみ設計したルイヴィトン名古屋では、ダブルスキンのモアレを用いてフェノナメルな透明性を実現した。
水晶の束としての摩天楼
9.11直後のマンハッタンは、かつての凛々しさ、崇高さを失い死の重圧感に押されていた。ルイヴィトンニューヨークでは、水晶の重々しくない凛々しさを取り入れてニューヨークの夢と崇高さを回復しようとした。
Ⅱ.別々のことをしている人たちが時間と空間を共有する
道から進化する建築
「動線体」という考え方は、「つないでいるもの」である道と「つなげられるもの」である建築を分けて考えるのではなく、道であると同時に人が居られる場所でもある物体(=建築)をつくるというものである。(例:馬見原橋)
決定ルール、あるいはそのオーバードライブ
ビルバオのグッゲンハイム美術館は、かたちを構成する決定ルールが設計者の意図を離れたことで建築の「ナカミ」を規定せず、空間としての透明性が増し、自然な建築になっている。
設計においては、決定ルールを完全にナカミから自律させ、その徹底的に形式的な運用の過剰、そのオーバードライブに身を委ねて見るべきではないか。
PLACE 動線体への道程
「殿堂」(PALACE)はそこで行われる行為が芸術であることを示す(額縁のような)ものである。これを「場」(PLACE)に変えるには、空間が目的を持たない「動線体」が有効である。動線体の条件は、
1.内部にも外部にも、「つなげられるもの=目的地、目的」をもっていないこと。
2.その機能が、そこでの活動によって事後的に生じていること。
3.いくつかの動きを内包したものであること。
4.最低ひとつの動きが外部に開かれていること。
5.動きの配線が外観を決めていること。
美術館をつくるということ
青森県立美術館では、人の行為を空間が先取りしないために、隣接する三内丸山遺跡の発掘現場としての質を延長させるというパラメータを持ち出した。
取りつく島もない強靭で自律した世界
ギャラリーに重要な要素として、筆者は「非仮設性」を挙げている。青森県立美術館では、ギャラリーの壁は仮設壁だが、それ自体がもつ空間を別の世界として自立させて、それによって逆に展示空間がしっかりと定義される、表裏がひっくりかえる作り方を試みた。
Ⅲ.生活を不定形で連続なものとしてそのままにとらえる
動線体としての生活
一般的に住宅の設計においては、
・生活をどのように「分割」するか
・分割されたものをどう繋いで、どのように全体を作っていくか
の2つの課題がある。しかし、実は意図をもった(分割された)行動そのものよりも、その狭間に生活の中心があるのではないか。そこで、「H」と「T」の住宅では、移行する「運動体」としての生活を主題に、分割しない空間を目指した。
窓としての住宅動線体の開きかた
窓は、壁にあいているものだけでなくテレビや電話といった比喩的な意味の窓もあるが、いずれにしろそれらが住宅の内と外の境界を動かす力にはなり得ない。
「窓としての住宅」である「S」が試みているのは、回遊する立体的で自律的な回遊動線を作り出しながら、同時に矛盾なくそれを外側の世界に限りなく開かれた網目とすることである。これは、ひとつの動線体において「閉じたシステム」と「開いたシステム」を共存させることである。
境界面・絶対フィクション
住宅を、生活そのものを成立させている場全体と定義すると、それは「家」を飛び越えてまちの至る所に拡散する。実際に住宅をつくる際にはこの定義のまま設計することは出来ないが、「動線体」の考え方を、物理的な繋がりではなく、生活が外と連続する「現象としての動線体」に発展させることができる。
「そのどこかに居る。しかしそのとき他のどこか別のところに居ることも想像している自分。そしてまた同時にそれらのさまざまな「居方」を第三者となって鳥瞰している自分。そんな現在という一瞬が持つ、しかしどこにもありえない状態を、今ぼくは「絶対フィクション」という言葉で呼びはじめようかと思っているところである。」
構成を表現を捨てること、および互換性について
「B」では、ナカミかカタチかという視点を捨て、L字形と鉤形の組み合わせという構成を純粋な抽象的形式として扱った。結果、ひとつながりの空間でありながら風景が切り替わる不均質性が生まれ、今ここにいることがたまたまである感覚と、そこでいま想定されている行為に互換性があるような感覚が空間に持ち込まれた。
「いたれりつくせり」でないこと
「L」においては、「その場の質」を意識して設計した。これは「いたれりつくせり」「エルゴノミクス」「住む機械」の対極にある考え方である。
リノベーション形式と自由
我々は形式(我々が無意識に前提としてしまうような感覚の根幹における形式)の外に出ることは出来ない。しかし、三宅一生のように服という形式を「1枚の布」にまで解体したり、マルジェラのように形式を内部から捻じ曲げる「リノベーション」を行うことができる。
とはいえ、共同性を必然的に前提としてしまうリノベーションには、形式に呑み込まれる危険性がともなう。結局は形式からの自由は「幻覚」かもしれないが、それにたいして自由を偽装するか、諦観するか、それとも第三の道を探すかがほんとうの問題となる。
廃墟
廃墟とは、かつての徹底した論理により出現したはずの建物がその根拠を失い、ただそこに忽然と存在している状態をいう。筆者の建築は、そんな廃墟のような性質をもっている。
Ⅳ.既存建物もそういう地形とか敷地のかたちと同じである
建築のアクチュアリティ
電子情報ネットワークシステムが張り巡らされた世界とは、時間も空間も、総体としてはパッチワークのような様相を呈する世界である。この考え方が20世紀の前提を覆し、生活全体の時間と空間が切り分けられるようになった。これにより都市計画のゾーニングが可能となった。しかし、空間と時間が分断化され、離散状態になるに従って、各々のカテゴリに分割されうることを前提とした空間のプログラムは実体を伴わない抽象的なものになる。そして、そうした離散系をどうコントロールするかという新たな問題にはまだ手がつけられていない。
人間とプログラムを接続するためには、まず「出来事」というアクチュアリティを考えてみる必要がある。
近代建築とグリッド
バックミンスター・フラーは、「ダイマキシオンハウス」において「住むための機械」を追求した結果、中央の支柱から傘を広げたような六角形に行き着いた。(グリッドを採用しなかった。)これは、正統的近代建築がグリッドを多用した理由を逆照射する。それは、グリッドが観念的操作が行われる前の「零度」の空間であるためで、グリッドパターンはアドルフ・ロースの「装飾と罪」以来100年以上その地位を守っている。
「意味」を見る目と「物質」を見る目
「地形とか敷地のかたちとかいうことには、良いとか悪いとかいう「意味」が含まれていない。・・・そういうものを細かく分解し、それを緻密に組み立て直す。「意味」は問わない。問うと恣意的な想念が混入する。「蔵」の改装を考えていて、そうか、既存建物もそういう地形とか敷地のかたちと同じなんだ、と思った。」
目の前にある豊かな物質的世界を並び替え、組み換え、変形するだけでできたものを建築と呼べばそれで十分ではないか。
ウイルス的設計論
建築を「つくる」ものではなく「変える」ものと考えると、ウイルスによく似ている。谷口吉生のニューヨーク近代美術館の大増築コンペに勝った設計はこれの最たるもので、「建築をつくる」のではなく「建築にする」案であった。
感想
日々設計課題などに取り組んでいて、デザインの必要性に疑問を持つことがあります。既存ビルのコンバージョンや廃校・倉庫の別用途への利用など、新たに形を作らなくても良い空間がたくさんあること、むしろそれらが「原っぱ」的で勝っているように見えることを考えると、都市の建築は機能主義の形態で十分ではないかと思ってしまいます。しかし一方で、(私は「建築のエンターテインメント性と呼んでいるのですが、)ザハさんの建築のようにその形態が力をもつ、まちに作用する建築の可能性も強く感じます。
この二つの背反する疑問を解決するひとつの手法が本著でも述べられているアルゴリズム(ナカミとは別の決定ルール)を用いるものだと感じました。
アルゴリズミックデザインには以前から興味があったのですが、その意義がずっと疑問だったので、本著によって少しその世界を覗けたような気がします。