都写真美術館で開催されている、石元泰博の写真展に行ってきた。
まず展示されていたのはシカゴと東京の白黒写真である。シカゴの瓦礫や東京の看板建築など、雑多な場面を構図に選ぶことが多い様で、電柱、電線が邪魔だと不平を漏らしたと言うが、それが主役の写真もあり、彼の作品の要ともなっている気がする。
石元は桂離宮を30年の時を経て二度撮影している。一度目と二度目で同じ場所を撮っているものがあるが、一度目はモダニズムの影響から、建築のパキッとした緊張感が伝わってくるが、二度目の作品からは木漏れ日や庭との関係など、自然と関わる暖かさが表現されている。
フィルムの強みを生かした多重露光のシリーズは、この表現が写真で可能なのかと驚いた。風景写真にドローイングを重ねて撮っている様だが、どこからどこまでがドローイング(または他の加工)で、元の景色はなんだったのかほとんど分からないものもある。
「刻」のブースで分かったことだが、彼が古い壁やゴミなど「朽ちたもの」を多く撮っているのは、そこに物質の輪廻を見ているからであり、写真には映っていない「あるはずの部分」に想いを馳せているということなのだろう。
「シブヤ、シブヤ」ではノーファインダーの技術が使われているそうで、人々の足元や背中が多く写る(プライバシーの問題もあるのかもしれないが)。この、若者を個人として見ていないアノニマスな感覚とノーファインダー特有の揺れ動くような光景が、若者の街シブヤの活気を印象づけている。
私も(一緒にするのはおこがましいが、)古いものを撮るのが好きで、よく壊れかけの空き家などを撮っているのだが、無意識のうちに「そこにあったもの」を思い浮かべているのかもしれない。