雪国 川端康成

この本を買った時はまだ寒く、季節柄ちょうどいいと思って買ったのだが、環境が変わってバタバタしているうちに夏になってしまった。やっと落ち着いてきたので、今度は逆に涼しい気になろうと、手に取ってみた。

本書の構成は、著者が後書きで「どこで終わってもよかった」という旨を書いているように、終章と呼べるようなものがない。ただ徒然と登場人物たちの「徒労」が描かれている、いわば風景画やミニマルミュージックのようなものかもしれない。

自由さの対比

島村は好きな時に雪国を訪れるが駒子はそれをじっと待っている。しかし置かれている状況としては、駒子のどこへでもいけるような身軽さと妻子のある島村の不自由さが対比されており、そのアンバランスがかえって二人の関係を深めていく。

駒子は(実は夫がいるが、)遊女であることもあって島村への愛情を曝け出している。一方島村は妻子というブレーキがあるため表向きは一線を引いているが、むしろそのために駒子に対する愛情を募らせているようにも読み取れる。

葉子の効果

葉子は駒子の許嫁の恋人という複雑な立ち位置である。普通なら犬猿の仲になりそうなものだが、その割には仲がよく、「駒ちゃんをよくしてあげてください」という葉子の言葉や、火事場で倒れた葉子に駆け寄る駒子が表現されている。島村はまた、葉子に目移りする場面や東京に連れていこうかといった発言をしており、三者の関係はより複雑性を増している。

また、冒頭の汽車で窓越しに葉子を見ていた島村は、赤い夕焼けと重なった葉子の顔の向こうに駒子を見ていたのかもしれない。このように作中において島村は、駒子によって葉子を、葉子によって駒子を見ていたようにも思われる。

島村が古着で買って着ているという縮は、制作時間から手入れまで、恐ろしく手間がかかるにもかかわらず、作った本人にはあまり見返りがなく東京ではあまり丁重に扱われていない。全く理にかなっていない代物であり、芸者たちの徒労の描写を強調している。

著者が「徒労」と表現している駒子(と葉子)の生き方について

駒子も葉子も、愛した人に妻子がいたり死んでしまったりと、報われない恋をしている。しかし本人たちはその悲しみを表に出さないことから、報われないことを厭わずに暮らしていく彼女らの強さが伺える。

舞台が「雪国」であることの意味

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という有名な冒頭文は何を意味するのだろうか?

まずは「国」「国境」と表現することで、日常とは違う世界であることを表明し、島村だけでなく読者をも日常から切り離す。

また実際は島村と駒子の関係は新緑の季節から始まるが、この冒頭文によって、どの季節においても雪の印象が残ることになる。これは、先述した「縮」の話が物語っている。雪国の芸者は冬の間外に出ることができず、時間がたっぷりあるのでみんなで集まって「縮」を編んでいたという。そんな閉ざされた世界で、寒さに頬を赤らめつつ健気に生きる駒子(をはじめとする芸者たち)の美しさを強調するのが冒頭文ではないだろうか。

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