SD選書を久しぶりに読んでみた。最近は小説ばかり読んでいたので、情報量の多さに戦慄したがなんとか読了した。
初期の丹下健三
1930年代、ヨーロッパでは白い陶器の如き貧弱なモダンデザインが流行していたが、日本はその反動で帝冠様式が称揚されていた。前者を機能主義を標榜するフォルマリズムとすると、後者は民衆と歴史を標榜する社会主義リアリズムであった。
ここに、丹下は「大東亜建設忠霊神域計画」を発表し、脚光を浴びた。これはフォルマリズムとリアリズムの止揚であり、近代の超克をなすものであった。
都庁について
終始一貫して建築の象徴性を提唱してきた丹下だが、新都庁ではそれが批判するの的となってしまった。それは、設計者と出題者双方のスケールの麻痺が原因の1つであろう。スター建築家にありがちなことなのかもしれないが、大きな建築ばかり相手にすることになり、もともと持っていた繊細なスケール感が失われていってしまうのは大きな代償かもしれない。
→新宿駅の上に作ったらどうだったかと著者は述べている。そうすると、皇居と富士山のラインに中央線が乗り、当初丹下が描いていたシンボルに近づくのではということだ。確かに、アクセスもいいし下層には民間の人気店が入ったりして賑わいも生まれるだろう。今の新宿駅から考えると、複雑怪奇な構造になりそうだが…
戦後の最前線を走る建築家であった丹下は、真っさらな日本の土地において、言わずもがな公共建築を多く手がけ、それらを民衆の集う場、建築それ自体が持っている機能を超える存在として計画した。しかし、現代では土地は建物で埋め尽くされ、公共建築の周りにはもっと集客力のある施設が乱立している。これにより、公共建築はただその機能を全うするだけの建築に成り下がってしまった。渋谷をはじめとする看板建築に慣れた我々が都庁に赴くときに感じる空虚は、その大きなボリュームに何が詰まっているか分からないことによるものかもしれない。
丹下健三のヴィジョンと風景
丹下研では、都市の分析に力を入れていた。そして、そのデータをもとに、建築を設計していた。
→万博のお祭り広場は、各地の祭りの界隈性を分析し、その結果を広場にオーバーレイさせて群衆の制御を図った。
一方、磯崎が「再び廃墟となったヒロシマ」を上映予定であったミラノトリエンナーレでは、学生運動が暴徒化し、会場自体が壊され廃墟となってしまった。
代々木体育館の吊り屋根
吊り構造は軽く見せるのが一般的だが、丹下は敢えて重々しく作ることで日本の伝統建築のような重厚感を演出した。丹下はモダニズムと和の様式を融合した、新しい建築を目指しており、それが戦後生まれ変わろうとする日本が求める建築そのものであったと言える。
メタボリストの躍進
浅田孝のカプセル建築原論
マルサッププランは、名前とイメージはどこかで見聞きしたのかそれぞれに覚えがあったが、メタボリズムの先駆けとなる重要な作品であったとは、些か不勉強を痛感した。昭和基地のパネル工法は特にそうだが、浅田の二つの代表作は、建築を「住むための機械」として作ったあたりがコルビュジェを想起させる。
黒川紀章と磯崎新の比較
黒川は社会工学研究所を設立したり政治権力へ接近したりと、社会・政治・経済という外側から建築を定めた。それに対し磯崎は、建築と現代美術や現代思想との接続を試みた。
両者は同じ丹下研出身でありながら異なる視点を持っていたが、それぞれの「行動建築論」と「スコピエ計画の解剖」という全く別の著書の中で、いくつも同じようなことを言っている部分がある。これはやはり、かつて同じ空間で議論した仲というか、丹下研というベースがしっかり根付いていることを感じる。
磯崎については、さらに事細かに書かれているが、本文でご確認いただきたい。
要約すると、磯崎は、「モノ」と「コト」により都市に介入し、日本文化やオペラ劇場などあらゆるものを「解体」した。既存のものの構成を組み替えて新たなものを生成する姿勢は、フォルマリズムとリアリズムを折衷した丹下と通ずるものがあり、その他様々な面を取ってみても、磯崎は丹下の「建築の本義」の正統な継承者であるということだ。