前回に引き続き、本の感想特集である。
向日葵の咲かない夏 道尾秀介
各所で驚きの展開だとレビューされていたので、怖い系は苦手なのだが気になって読んでみた。
毎投稿ネタバレしまくっているので今更ではあるが、こちらは特にネタバレなしで一度読んでいただきたい。文章自体は難しくなく、展開が進むにつれ一気に読んでしまいたくなるのですぐに読み終わると思う。(読了後にこちらで感想を共有できたら嬉しい。)
トリックを論理によって解き明かしていくような純粋なミステリを読みたい人には、本書は通常ありえない展開が多いためお勧めできない。逆に、一味違うものを求めている人にはぴったりだと思う。
一通り読み終えてみると、我々は結局ミチオ君の手のひらの上で転がされていただけであることに愕然とする。
幼いミチオ君のちょっとしたいたずらがミカの死を呼び、軽い気持ちで言った「死んでくれない?」という一言がS君を自殺に追い込んでしまった。これらの過ちを受け入れられず正当化しようとした結果、おじいさんまで殺してしまうことになる。
(ミチオ君がぶっ飛びすぎていて霞んでいるが、)他の登場人物たちも歪んだ一面を持っており、作中に狂気が充満している。これらは誰かに相談できるような類のものではなく、かといって自分の心の中だけでは抱えきれない痛みが外部に向かい、他人の痛みを生むという負の連鎖を繰り返している。
後味の悪い作品ではあるが、斬新な展開による唯一無二性と、人間のもつ残酷な一面を直視させられるという点で、一度は読んで損はないと思う。
ハネムーン よしもとばなな
彼女の作品は何冊か読んできたが、全体的に冷たい/非情/恐ろしい「社会」というものから逃れてきた主人公が多く、それにより社会に疲れた我々の心を温めてくれる。
本作は、中でも「社会」に位置付けられるものが悍ましく、残虐とも言えるほどである。
主人公は基本「何もしていない」という何とも羨ましい生活をしている。
庭を挟んだ向かいには家庭環境が全く異なる男の子が住んでいて、お互いが成長するにつれ親密になっていく、一見とても平和な物語である。序盤を読んでいる間は、「こんな生活がしてみたいなあ」と思ったものだが、現代を生きる我々には「何もしない」ことこそ難しいのかもしれない。気づくとすぐにスマホを片手に握っている。仕事でずっとパソコン画面を見ているため、寝る前くらいは画面から離れたいのだが、調べたいことがあったりSNSを見てしまったりと、中々離れられない。特にSNSからの情報過多により現代人の脳はパンク気味らしいので、気をつけなければ、、、とは思っている。(そうは思っていても、この文章を書いているのが夜という矛盾、、、)
話が脱線したが、物語の内容に戻る。
物語の大部分が家と庭の行き来で成り立っているが、「他国で得体の知れない宗教をしている父」という黒々しいものが背景にあることで、その各々をバラバラに認識するよりも異質に感じる。
親というものは、子供本人は選べない割に本人の人格・人生大きな影響を与えるものだという。(私は家庭環境に恵まれているが、)毒親という言葉とともに様々なエピソードを耳にする。本作の、お父さんもその類なのだろう。現実の生活は(側から見れば)とても平和なものだが、当の本人の心の中では、黒々としたものが渦巻いている。婚約者である主人公はその心の荷を軽くしてあげようと試みるが、本人は一人で抱え込んだままでいる。
本作の家庭環境はやや特殊かもしれないが、家庭環境に限らずとも、現代に生きる人には誰しも人には言えない(言いたくない)様な黒いわだかまりを飼い慣らしているものではなかろうか。
本作の主人公2人は、小さい頃からずっと一緒にいるという、現代では珍しいくらいの親密度だが、それでも心の暗い部分はなかなか共有できずにいる。ましてや、SNSで浅く繋がる交友関係が基本である我々には、こういった深い悩みを話す相手が見つからないのが現状かもしれない。
知り合ってからの年数などは関係ないと思うが、こういった話題を気軽に話し合える人物がいると心が楽になるのだろうと思う。
こころ 夏目漱石
高校の頃に教科書で一部を読んだ気がするが、もはやどこを読んだのかすらわからなくなってしまった。しかし、Kが自殺し、部屋に血が迸っている情景は覚えているので、おそらくその辺りが抜粋されたのだろう。結末を知っているだけに、それと直接の関係がない前半部分はかなり長く感じた。この前半部分は、作品全体においてどのような効果を持っているのだろうか?
そこには明治の終わりという時代設定がある。天皇の崩御により一つの時代が終わりを告げるとともに、その渦中を生きた先生は乃木希典の殉死を真似るようにして、「明治の精神」とともにこの世を去る。(そして、本作の語り手である「私」はその次の世代であり、天皇の後に続いて死ぬという考えは持っていないと思われる。)「私」の父が、天皇の崩御を知った途端に生気を無くしたのも、同じ精神から来るものであろう。
父と先生が同時に死ぬことで、「私」はどちらかを選ばなくてはならなくなった。そこで先生を選んだのはまさに個人主義である「大正世代」の行動と考えられる。
「何もしなくていい」という先生の境遇は、現代の庶民を生きる私には些か羨ましいような部分もあるが、それでも「何かしよう」とすればできる境遇でもあったわけで、もしKが生きていれば一緒に何かをしていたかもしれない。しかし、Kと御嬢さんと3人で住み始めてしまった瞬間に、その希望も閉ざされていたのだろう。先生がKを家に招き入れたのも、Kが望むからではなく自分がそうしてあげたいというエゴイズムによる行動であり、またKの気持ちを知りながら御嬢さんを横取りしたのも、自分勝手である。叔父に裏切られてからというもの、自分以外信用できなくなった先生が、Kを裏切ってしまったことで自分さえも信用できなくなってしまった。唯一のKへの贖罪としてできることは、妻には罪を背負わせず清らかなままにして、自分だけがこの罪を背負うことである…。
本作全体を通して、視点は「私」や先生の主観であるし、出来事も個人的なものである。しかし、そこには時代の節目という極めて社会的なフィルターがかけられている。この二つの解像度を行き来することで、時代の変化で我々には理解できない(おそらく大正世代である「私」も理解できない)部分がありながらも、常に正しくは生きられない人の心の機微を巧妙に描き出している。これが本書が日本を代表する文学となっている所以のように思われる。
火花 又吉直樹
芸人の話を芸人が書くと、どうなるのだろうかと思って読み始めた作品。しかし蓋を開けてみると、これは「芸人が書いた」のではなく、「又吉直樹という人物が、自分の領域である分野を題材にして書いたら、芸人の話になった」という印象に変わった。
又吉さんのYouTubeをたまに拝見しているのだが、YouTubeにも本著にも、笑いだけでなく服や音楽といった著者の「好きなもの」が詰め込まれている。それらを繊細な感性と言葉の選択により、表現としている。
太宰治をはじめとする文豪を尊敬しておられるので、文章も難解になっているかと思いきや、言い回しはとても柔らかく、かと言って単調でなくリズムがあって小気味よい。
私が気に入っているのは、場面が切り替わる一言目に「姿の見えない金木犀」という言い回し。普通はダイレクトに「香り」と言ってしまうところを、その香りの存在感の強さから、主人公の脳内で金木犀はすでに存在していて、「姿」だけが見えない状態であることがよくわかる。
本著のあらすじは、駆け出しの芸人が売れない先輩芸人を慕い続ける話である。
笑いを突き詰めるとこうなってしまうのだろうか、先輩芸人の笑いはニッチというか、笑いを勉強していない我々から見ると軸がズレているような感じである。しかし、主人公の後輩は出会ってからずっとその先輩のことを慕い続けており、独特の信頼関係を築いている。
神谷さんは、後輩が売れても僻んだりせず仲良くしてくれていい先輩芸人だが、笑いに関しては追求しすぎて迷子になっている。これを芸人が書くことで、芸人の世界がよりリアルに感じられる。夢を追っていたはずが、自分ではどうしようもないループから抜け出せなくなった人はどの業界にもいるのだろう。
それでも前向きにネタを作り続ける神谷さんは、一周回って愛おしく思えてくる。
漱石のこころのように、無名の人物を慕う主人公というのが、社会でよくあるようなネームバリュー・知名度に流されない自分の価値基準を持っている点で好感が持てる。SNSで話題のスポットに集まる人々を見ていると、これほどの絶対的価値観を持つ人物は現代には少ないのではと感じる。
逆にこころと違って、誰かが遠くへ行ったり死んだりという、物語によくあるような悲しみはないのに、どこか哀愁が漂う作品である。