キリスト教が迫害されていた時代(1600年代日本)の様子がわかる一冊。
迫害の時代に生まれてしまったせいで、居場所を失ってしまった教徒たちがやるせない。特に、弱者であるキチジローは「平和な時代であればひょうきんな教徒として愛されたに違いない」という司祭の言葉が記憶に残る。
→同じ考え方、特性でも、身を置く環境によって有利になったり不利になったりする。現代でも、家庭環境や学校、職場など、合わないところでは自分らしくいられない。時には逃げることも必要で、自分が輝けるところを探す必要がある。
これをキリスト教徒である遠藤周作が書いたというのが衝撃である。海外で映画化されているところから、海外の方々には本作がどう映っているのかも気になるところである。
司祭も井上も、日本のキリスト信仰はいつの間にかガラパゴス化して、本来のものは改変されてしまったという。洗礼まで受けたことのある井上のキリスト教迫害は、「本来のキリスト教」が失われてしまったことによるものではなかろうか。一度は布教側に立った井上によるキリスト教の迫害は、内情を知っているからこそより残忍で、かといって一概に責められない節がある。迫害は良くないと、綺麗事で片付けられない複雑さを孕んだ作品である。